〜(16)栄西茶〜 チャレンジ精神息づく


棚田を転作した茶畑で茶摘みをする多良さんら=神埼郡東脊振村

 日本茶発祥の地にちなみ、「栄西茶」ブランドで釜炒(い)り茶を売り出している神埼郡東脊振村に、すっかり黄ばんだ紅茶のラベルが残っている。明治時代、ロシア輸出用の紅茶生産に挑んだエピソードを物語る貴重な資料だ。結局、商業ベースに乗れず幻に終わったが、二十一世紀の今、栄西茶には先人たちのチャレンジ精神が息づく。

 「栄西茶」のブランド名が誕生したのは、一九九○年。それまでは栄西が茶の種をまいた場所から「岩上茶(いわかみちゃ)」と呼ばれていた。

 名付け親は、役場職員だった多良正裕さん(52)。「日本茶発祥を強調するため、栄西を前面に」と考えたという。しかし、当時は品質がもうひとつで「製茶工場の閉鎖話がでるほど、お荷物になっていた」。

 そこで、自ら打ち込もうと、父親を説得して稲作から転換。「農家の生き残りにつなげたい」との思いがあった。多良さんは昨年までの五年間、休耕田を茶畑にする事業にボランティアで参加した。茶摘みができるまで育て、農家に引き渡す。栄西茶の生産量を増やすのが狙いだ。

 栄西茶の生産量は年間十八トン超。県内の七−九千トンに比べれば、まだまだ微々たる量ではある。

■紅茶幻の輸出

 現在、栄西茶のチャレンジが続くこの村には、明治時代、紅茶に挑んだ歴史がある。

 『東脊振村史』によると、一八九五(明治二十八)年、熊本から指導者を招いて、紅茶の製造と生産者育成にあたる「紅茶伝習所」が同村坂本に置かれた。出来上がった品は「香気、色つきともに肥後紅茶よりも上等」と、高い評価を受けたと『村史』は記している。

 ロシア市場が狙いで、上々の滑り出しだったはずが、販売戦略でつまづく。釜炒り茶の三倍の値で出荷したが、初期投資のコストを上乗せしておらず、資金繰りが悪化。さらに、追い打ちをかけるように天候不順や悪性の流行病が続き、伝習所はわずか五年で閉鎖に追い込まれた。

 紅茶のラベルは当時、村の茶業の発展に奔走した築地太助(一八五八?−一九四○)の孫、築地田鶴子さん(76)が大切に保管していた。脊振の山並みなど東脊振の景色が描かれている。太助が廃所式で読み上げた文面もあった。「ついに廃絶の悲運に遭遇し」と嘆き、「希(ねがわ)くは、将来の隆盛を祈る」と未来に夢を託している。

■挑戦の始まり

 栄西茶の多良さんは「挫折に終わっても、ふるさとの先輩たちの努力は大変なもの。茶は東脊振の宝。これを生かしたい」と、思いを重ねる。

明治時代にロシアへの輸出用に作られた紅茶のラベル

■伝統の継承

 昨年、東京の有名デパートに販路が開けた。JA神埼郡の梅野秀俊課長(54)は「好評で今年も置いてもらえる。どこに出しても恥ずかしくない品質」と自信をみせる。

 村は二〇〇六年、大きな転換期を迎える。福岡都市圏と結ぶ東脊振トンネルが開通し、人と物の流れが変わる。

 現在、村商工会の事務局長を務める多良さんは「栄西茶を軸にした展開を考えたい。その前に、栄西茶をおいしいお茶の代名詞に育て上げなくては」と力を込める。時代を超えた挑戦は、まだ始まったばかりだ。


(文・古賀史生、写真・中島克彦)

日本茶栽培発祥の地を示す碑=神埼郡東脊振村の霊仙寺


=メモ=
〈日本茶栽培発祥の地〉

 臨済宗の開祖・栄西が1191(建久2)年、脊振山の中腹にある霊仙寺(りょうせんじ)に、宋から持ち帰った茶の種をまいたとされる。栄西は『喫茶養生記』を著して、眠気を覚ますなど茶の効能を説き、普及に努めた。

 宇治茶は、栄西が東脊振から送った種が始まりとされている。京都の高山寺には種を入れていたつぼ「漢(あや)の柿壷」が残っている。

  • バックナンバーへ