<33>技術者集団 〜新産業創出へ英知結集〜


エックス線撮影によって浮かび上がった蒸気船模型の内部構造。「シンプルながら精巧」と精煉方の技術力が評価されている=東京文化財研究所撮影を複写

 東京・上野の国立科学博物館で開かれている「江戸大博覧会−モノづくり日本−」。幕末期の蒸気機関車と蒸気船の模型六台が初めて一堂に会した。

 三台は佐賀藩の精煉方(せいれんかた)の製品。当時の日本人にとって蒸気機関は西洋科学技術の象徴だったが、輸入品とみられる他の三台に引けを取らない完成度を持つ。精煉方の技術力をあらためて認識させる。

 科学技術の研究機関として、藩外からも優秀な人材を求めて開設した精煉方。研究対象は金属、火薬、ガラス、陶磁器、木材、製革、せっけん、紡績、製紙、製糖、製薬、写真術など、多岐にわたる。藩に利益をもたらす新産業はないか、さまざまな領域に挑んだことが分かる。

■蒸気機関模型に衝撃

 開設から半年余がすぎた一八五三(嘉永六)年夏。開国を求めて長崎に入港したロシア軍艦に、佐賀藩の技術者二人が乗り込んだ。鉄製大砲鋳造の責任者本島藤太夫と精煉方の化学者中村奇輔。熱心に装備を視察していた二人が衝撃を受けたのが、蒸気機関車の模型だった。

 蘭書から得た知識はあったが、まだ誰ひとり、日本人は実物を見たことがなかった。同じような模型は半年後、来航したペリーの艦船にも積み込まれていた。日本人を驚かす意図があったのだろう。予想通り、目を見張っている二人に気付いたロシア士官が、機関に熱湯を注ぎ、アルコールで熱して沸騰させると動き出した。

  円形に敷いた線路を走り続ける模型。得意気に説明する士官のロシア語が理解できず、詳しい構造や仕組みは分からなかった。だが、その分、かえって技術者魂がかき立てられたのだろう。興奮は同僚に伝染した。石黒寛次が蘭書を調べ、からくり儀右衛門こと、田中近江は「造船業を興そう」と意欲を燃やした。

 蒸気機関車と蒸気船の模型が完成したのはそれから二年後。精煉方の責任者だった佐野常民は「諸氏と日夜研究に取り組み、試験を続けた」と述懐。チームワークによって蒸気機関を作り上げたことを強調した。
 

■直正「私の道楽だ」

 精煉方の研究の多くは中村が起草し、石黒が蘭書を研究。田中を中心に模型を製作し、実験を繰り返す|というパターンを取った。未知の技術に挑むには一人の能力では難しい。各自の得意な知識や技術を生かし、協力して進めるしかない、と認識していたのだろう。

 しかも、可能な限り実物に触れようとした。外国船が来航すれば必ず誰かが視察。海外派遣の機会には石黒や秀島藤之助らが参加した。新たに得た知識は共有し、活用したのだった。

 しかし、英知を集めた研究も小規模な実験では成功するものの、実用化に向けた大規模な実験になると失敗が続いた。経費節減を励行する藩政幹部は度々、精錬方廃止論を主張したが、直正は「これは私の道楽である。制限するな」と退け続けた。

 『鍋島直正公伝』は「精煉方の面々は蒸気機関や電気の力を応用しようと工夫を凝らしたが、藩内一般には理解されず、直正公の蘭癖を慰める娯楽場のように思われていた」と書く。冷ややかな視線をはね返すには成果を出すしかない。試行錯誤の日々が続いた。

 約百五十年がすぎた今年、精煉方が製作した蒸気船模型がエックス線撮影された。浮かび上がった内部構造は、シンプルながら歯車などを使った精巧な作りだった。撮影した三浦定俊東京文化財研究所協力調整官は「苦労しながら丁寧に作った模型だ。本物の蒸気船を造ろうとする思いが伝わってくる」。精煉方のメンバーが懸命に取り組む姿を思い浮かべた。

■近代工業の先例に

 佐賀藩は精煉方を開設した後、車船製造方や三重津造船所、手銃製造方などの製造工場を相次いで創設。精煉方の研究者と工場の技術者が協力し、研究を生産に生かす体制をつくった。

 アームストロング砲鋳造への挑戦や、蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」の建造は、精煉方と工場の連携が生んだ成果だ。

 新製品開発に向けて研究機関で試験を繰り返した後、製造部局と協力して新製品を生み出す。近代工業のあり方を示した先例ともいえる。

 ただ、精煉方が手掛けた多種多様な研究の中で、優先したのは藩軍の強化につながる研究だった。幕府が弱体化し、政情は緊迫、内戦の可能性も強まった時代では、致し方なかった。思い描いていたさまざまな産業育成は果たせないまま、新しい時代を迎えることになった。

江戸時代の科学技術を紹介している「江戸大博覧会」。精煉方製作の蒸気船や蒸気機関車が注目を集めている=東京・上野の国立科学博物館、31日まで


◆藩主の期待が重圧に

 優秀な蘭学者や技術者を集めた精煉方。藩の書籍貸出簿には、佐野常民をはじめとするメンバーが化学や工学などの専門書を頻繁に借りた記録があり、日々の研究の様子がうかがえる。

 長崎や海外への出張派遣も多く、幕府が長崎に開設した海軍伝習所にはほぼ全員が入学。ただ、精煉方の研究を放りだすわけにはいかず、佐賀−長崎間を何度も行き来している。

 ハードな研究生活は犠牲者も出した。京都から招いた化学の第一人者、中村奇輔は1862(文久2)年、実験中に大やけどを負い、廃人に。

 蘭学寮出身の秀才で機械工学などに通じていた秀島藤之助はその2年後、長崎で精神に異常を来し、一緒に蒸気船を調べていた田中近江の息子を斬殺(ざんさつ)してしまった。藩主直正の信頼が厚かった秀島は激務を続けていたようで、『鍋島直正公伝』は「刻苦勉励の極み、その度を過ごしたため」と書いている。

 藩主が寄せる期待が重圧になっていたのだろう。
(文・写真 福井寿彦)

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