<22>「葉隠」批判 〜精神論より学問重視〜


現代にも通用する教訓を盛り込む「葉隠」。図書館には関連書籍が並び、研究書や歴史書だけでなく、ビジネス書にも取り上げられている=佐賀市立図書館

 「鍋島藩士ならば、よその学問は無用である。鍋島の歴史や家風さえ学んでいれば、ほかには何も要らない」―。『葉隠』の冒頭部にある「夜陰の閑談」の一節だ。文字通りに読めば、中国の聖人の教えを中心に政治や道徳を学ぶ儒学中心の藩校弘道館などは不要ということになる。

■「口コミ」で浸透

 十代藩主鍋島直正が藩主になる一八三〇(天保元)年より以前、弘道館は沈滞ムードに包まれていた。予算削減のため、校舎の修繕もできない状態。学生数も減り続けていた。家格を世襲で受け継ぐ門閥制度の社会では、藩校で努力して優秀な成績を収めても出世につながらないことは、子弟らも知っていた。

 加えて、ひそかに読み継がれていた『葉隠』は、学問より精神に重きを置いた。これも弘道館が不人気だった理由だったのかもしれない。

 武士道書の古典『葉隠』。全十一巻、約千三百章から成る。佐賀藩士としての心構えを説く山本常朝(つねとも)の話を田代陣基(つらもと)が筆録し、一七一六(享保元)年ごろに完成した。

 政治批判や藩士たちの不正も書き連ねたため、著者自ら「火中すべし(焼き捨てるように)」と求めた秘本=B藩が奨励することはなく、藩校弘道館で教材に用いられたこともない。にもかかわらず「死ぬことと見つけたり」に代表される激烈なメッセージは口コミで知れ渡り、藩士らがひそかに書き写していった。

 直正が藩主となったころ、『葉隠』はすでに完成から一世紀を経過。いつの間にか「鍋島魂」の神髄を表した本と位置づけられていた。藩政史上最も『葉隠』が浸透していた時期だったともいわれている。

■学ぶ意欲かきたて

 鎖国下、イギリスやロシアの船が頻繁に現れるようになり、緊張は高まり始めていた。佐賀藩では前藩主斉直の放漫な藩政運営のため、藩財政が破綻(はたん)寸前の状況。難局を委(ゆだ)ねられた直正は改革の柱の一つに、教育による人材育成を掲げた。弘道館を拡張し、すべての藩士を学ばせ、家格にかかわらず優秀な人材から藩政に抜擢(ばってき)する。ブレーン古賀穀堂の建言によるものだった。

 古賀は直正が藩主に就任するや、人材登用や意識改革の必要性を説いた緊急提言書『済急(さいきゅう)封事(ふうじ)』を提出した。「『葉隠』さえ読んでいれば事足りるという考え方は大間違いだ」。ねたみや負け惜しみばかりで、学ぶ意欲も感じられない藩内の風潮。『葉隠』の特徴の一つである鍋島至上主義が口実になっていると思えたのだろう。痛烈な批判だった。

 「視野を広げ、海外の知識や技術を吸収しなければ、外国船が来ても対応できず、長崎警備の大役は果たせない」。儒学者ながら古賀は持論をそう説き、積極的に洋学を奨励した。警備強化には科学技術力が必要であり、教育はさらに重要性を増す。「これから激動期を迎える」と時代の先を読んでいた古賀の提起を原点に、藩の教育の重点は実用の学問である洋学へと移っていった。

■「あてにならぬ」

 作家の司馬遼太郎は短編『肥前の妖怪(ようかい)』で、古賀の教えを受けて育った直正を徹底した合理主義者として描き、「葉隠はあてにならぬ」とつぶやかせている。藩主のこの言葉が若い藩士の間に広がり、「ことに弘道館の学生たちの間で葉隠的伝統への軽侮、憎悪の気分が起こった」としている。

 弘道館の学生たちの間では次第に洋学の人気が高まり、一八五五(安政二)年には儒学派への反対運動が起きている。

 首謀者とみられた大隈重信は退学処分を受けて中退。洋学を学び始め、やがて日本近代化の推進者になる。晩年の大隈は『葉隠』を「奇異なる書」と呼び、「いかに世界が広くとも、佐賀藩より貴重なものはほかにないように教えた」と批判的に解釈した。

 同世代の秀才で後に歴史学者となった久米邦武も「すべて読んだ人はいないのでは。私も三分の一も読んだかどうか」と話している。幕末の若者たちの『葉隠』への関心度を示す証言だろう。

 『葉隠』はいつの世にも通用するような教訓を含む思想書、倫理書だ。「死ぬこととみつけたり」などの勇ましい言葉が軍国主義に利用され、不遇な時代を経たものの、その普遍的な性格から、日本の名著の一つに数えられるようになる。

 だが、近代化が胎動した幕末期、進取の気概に満ちた若者たちの目には、古く、保守的なものに映っていたのだった。

山本常朝の隠宅で語られた内容が「葉隠」になった。発祥の地には記念碑が立つ=佐賀市金立町


◆殴り合いの「南北騒動」

 大隈重信が18歳で藩校弘道館を中退するきっかけとなった事件が、1855(安政2)年6月、弘道館の内生寮(現在の高校・大学に相当)で起きた「南北騒動」だった。

 ペリーの再来航によって和親条約を結び、日本が開国した年。世の中は大きく変わろうとしていたが、内生寮の授業は旧態依然のまま。ひたすらに四書五経を読み、儒学を学ぶばかり。飽き足らない学生たちが改革を唱え始め、儒学に熱心な学生たちと対立した。やがて寮の南北に分かれての大議論に発展し、入り乱れて殴り合う事態になった。

 議論好きの大隈は騒動の首謀者とみなされ退学処分に。すぐに復学が許されたが、大隈は蘭学寮への転入を選んだ。この後、大隈を追って蘭学寮への進学希望が増えだしたとされる。学生たちの意識を洋学に向けさせ、視野を広げる大きな契機にもなった出来事だった。
(文 ・福井寿彦、写真・小山則幸)

  • バックナンバーへ