<17>ディベート授業 〜難題に向かう力育成〜


大隈重信のために母が増築したとされる勉強部屋。少年時代の大隈は壁の中央にある柱に頭をぶつけて眠気を覚まし、勉学に打ち込んだという=佐賀市水ケ江の大隈重信旧宅

 佐賀市水ケ江にある国の史跡、大隈重信旧宅。その二階に勉強部屋がある。藩校弘道館で学ぶわが子のために、母三井子が増築させたとされる八畳間。勉強中、頭をぶつけて眠気を覚ましたという柱もあり、懸命に学ぶ八太郎少年(重信)の姿が思い浮かぶ。

 晩年、大隈は弘道館の教育について「まず四書五経の文字だけを読み下し(素読)、次に多人数で読みながら意味を研究し合う(会読)」「秀才で人にすぐれた者であっても、この順序をふまなければその才能を伸ばすことができなかった」(『大隈伯昔日譚(せきじつたん)』)と回顧している。

 大隈にとって、弘道館は窮屈だったのだろう。一八八二(明治十五)年に在野、進取の精神を掲げて創設した東京専門学校(現在の早稲田大学)が、自由な学風を重視したのは、弘道館教育への反動もあったといわれている。

■近代的学制の萌芽

 弘道館は今の小中学校に当たる通学制の蒙養舎(もうようしゃ)と、高校・大学に相当する寄宿制の内生寮、通学制の拡充局で構成していた。六、七歳から蒙養舎で初等教育を受け、十七歳前後で内生寮か、拡充局に進級し高等課程を修める。この二段階の課程に沿ってカリキュラムが決められていた。

 蒙養舎では『大学』や『論語』などの素読と、教師の傍らで繰り返し読む「返読」を徹底して行う。十二歳前後で漢字や文法を覚えて独力で読む「独り読み」に移り、習字、作詩も開始。高等課程は会読中心で、教師の講義も加わる。素読、返読、独り読み、会読と進む中で、四書五経などを徹底的に読み解く力を身に付けるのだった。

 「課程を分け、進級基準やカリキュラムを定めるなど、他藩校に比べかなり先進的だった」と佐賀大学教授の生馬寛信さんは指摘する。こうした「学校の組織化」が確立するのは明治中期以降だが、「佐賀藩ではすでに天保期からの学制改革にその胎動がみえる」といい、近代的な学制の萌芽(ほうが)を弘道館にみている。

■一流の教授を招集

 教師陣も一流だった。創設に携わり、後に江戸昌平坂学問所の教授となる古賀精里(せいり)、その子で藩主直正の改革を支えた穀堂(こくどう)。ほかにも草場佩川(はいせん)や武富=南(いなん)、大園梅屋(ばいおく)ら広く他藩にも名の通った学者を集めた。

 このうち、草場佩川は博学で詩や書画にも才能を発揮した人物。自らも多久領の郷校・東原庠舎(とうげんしょうしゃ)を経て弘道館に学んだ卒業生で、江戸に遊学して古賀精里門下となったことから、穀堂と親交。一八三五(天保六)年の佐賀城火災を機に本格化した改革に伴って、弘道館に求められた。

 当時、佩川は四十代後半。東原庠舎の教官で、多久領の有能な行政官でもあった。重要人物の引き抜きに、多久領は猶予を願い、本人も病気を理由に渋ったが、断れなかった。弘道館に移った後は私塾も設け、数多くの学生を育てたという。

■自己研さんを徹底

 「弘道館の一番の特色は徹底した自学自習である」(奈良本辰也編『日本の藩校』)といわれる。大拡張によって生徒数千人を超えるマンモス校になったが、教師は校長格の教授一人、助教授一人、教諭五人とごくわずか。卒業生から選ばれた寮頭(りょうがしら)や指南役が後輩の指導に当たりはしたが、基本は各自の自覚に基づく研さんだったのだ。

 また、討論の重視も大きな特徴。講義は少なく、代わりに、上級の学生たちには盛んに議論させた。「江戸昌平坂学問所に遊学した者で佐賀弘道館の出身者は、議論をすればいつも他藩の者には負けなかったといわれているが、会津日新館の出身者だけは弘道館生の好敵手であった」(『日本の藩校』)という評価も。現代、欧米を範にディベート(討論)授業が流行したが、江戸末期の弘道館はすでに成果を挙げていたのである。

 討論の重視は、藩主直正の教育観から出た方針だったようだ。藩政の重要案件でも御前会議を開き「腹蔵なく議論せよ」と命じて耳を傾けた直正。「講釈を聞くだけでは益はなく、問答談話こそ大切である」が持論だったとされている。

 大隈の述懐のように、弘道館教育は型にはまった堅苦しいものだったろう。しかし、自ら学ぶ姿勢を育て、ステップアップしていく体系的なカリキュラム。最終的には現代と同様に、難題に立ち向かい、議論を重ねて解決の道を探る力を育てたように思える。

 明治新政府が佐賀藩から人材を吸収したのも、人々がそうした問題解決能力を備えていたからだろう。大隈が新政府で重用されたのも、優れた議論、交渉能力があったからだといわれている。

テーマを決め、賛成、反対を討論するディベート授業。論理的な思考力を育てようと現代教育に導入されている=昨年2月、佐賀女子高武雄校舎


◆厳しく質素な学生生活

 学生はどんな生活を送っていたのだろうか。弘道館の移転拡張に伴って学習も厳しくなったようで、1840(天保11年)の記録では、朝は午前6時に授業が始まり8時まで。昼の授業は同9時から午後4時、夜は6時から10時までだった。

 学問も武芸も、試験は毎月数回。藩主が臨席する特別試験もあって、気が抜けなかったようだ。後に歴史学者となる久米邦武の回顧によると、教室には机はなく、学生はそれぞれ授業板という木製の台に乗せて本を読んだ。藩主用の黒塗り授業板もあり、訪れた直正が使っていた。

 寄宿生の給食は1日に米5合。朝は漬物、昼は少しおかずがあり、夜はご飯と塩だけだった。今日からすれば質素だが、久米は「それでも弘道館は良い方だった」。全国のエリートを集めた江戸昌平坂学問所では米は1日4合。朝は漬物、昼はみそ汁があるが、夕食はなし。学生は朝、昼のご飯を残しておき、夕食に充てていたという。
(文 ・福井寿彦、写真・小山則幸)

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