佐賀新聞社 論説委員長
富吉賢太郎
 ギリシャ・マラトンの海岸に上陸したペルシャの大軍をギリシャ軍が打ち破ったのは紀元前5世紀のこと。味方の勝利を告げにマラトンからアテネまで1人で走り抜いたギリシャの伝令。古代伝説とロマンが漂う「マラソン」の起源はつとに知られている。

 人を熱狂させる同じ長距離走でも、何人ものランナーが走り継ぐ駅伝は、日本の飛脚制度が原点とされている。

 江戸時代。参勤交代による街道文化が花咲いたそこには、手紙や金銭、荷物を担いで届ける「飛脚」と呼ばれる伝達システムが出来上がり、宿駅ごとに常駐していた韋駄天(いだてん)たちによってリレーされたのだ。これが走り継ぐ長距離走・駅伝の原形である。

第12回大会の三原市郎選手(鳥栖市)
 競技としての始まりは1917年。東京遷都50周年を記念し京都・三条大橋から東京・上野不忍池までの526キロ、23区間のタスキリレーが発祥とされている。それから87年、今や駅伝は「EKIDEN」として世界に知られる競技となった。

 早春の肥前路を駆け抜ける県内一周駅伝。鍛え抜かれたしなやかな体が冷たい風を切っていく。したたる汗、地面を蹴(け)る足の音。沿道の声。ふるさとの誇りを一本のたすきに託した駅伝は、ファンならずとも熱狂させてしまう。

第22回大会 最優秀選手 岩永義次選手.
 歴史を重ねて今年で44回。幾多の名勝負が記憶にあるが、県内一周駅伝から日本のトップランナーに成長した喜多秀喜(帝京大陸上部監督)の快走は今でも忘れられない。

 舞台は第15回大会(1975年)。福岡大4年で、既にモントリオール五輪の強化選手となっていた喜多。3年ぶりの県内一周出場とあって、どんな走りを見せてくれるのか、注目の的だった。

 大会初日、各チームのエースが揃(そろ)った最長区、鹿島|嬉野(15.6キロ)の鹿島中継所に、満を持し、リラックスした藤津郡代表の喜多がいた。トップでたすきを受けたのは地元・鹿島市のエース松尾正雄(九電工)。続いて優勝候補、佐賀市の花田健児(佐賀市役所)。2人に遅れて、いよいよ喜多がたすきをつかんで飛び出した。花田と1分29秒、松尾とは2分36秒、距離にして1キロ近い差である。

昭和50年の第15回大会で
猛烈な追い上げを見せた喜多秀喜選手(左)
 小雪混じりの冷たい風がほおを打つ塩田川沿い。獲物を追う草原のヒョウのごとく喜多は走りに走った。10キロ地点で花田をとらえ、松尾を追う。喜多の足音が聞こえたのか、後ろを振り向く松尾。ものすごい喜多のスピードに一瞬すくんだ松尾に襲いかかり、あっという間に抜き去った。

 とても破られないだろうと思われていた三原市郎(白石高陸上部監督)が前年打ち立てた区間記録をあっさり塗り替える46分58秒の快走。県のトップランナーだった花田、松尾をして「格が違う」と言わしめた喜多のその後の活躍はだれもが知るところである。

第30回大会
東松浦2度目の優勝
最優秀選手 小西政徳のゴール
第25回大会 最優秀選手
松枝憲義選手(中)
 もう15年も前になろうか。私は、日の暮れた有田・赤坂の山道を走っていた。前を走っていたのは、県内一周・西松浦郡チームのメンバーである。原田和芳、田中正継、安永誠史、岩永譲ら。原田は高校時代、全国高校駅伝大会で『花の一区』で区間2位という輝かしい戦績を持つ傑物である。ちなみに、その大会の区間賞は、あのマラソンランナー瀬古利彦(ヱスビー食品陸上部監督)だったという。

 有田が誇る往年のランナー松尾一、岩永寿久らの顔もあった。有田支局で出会ったこの仲間たちが走る楽しさ、駅伝の面白さを教えてくれた。今は大半が現役を退き、チームのコーチ、監督や大会役員として頑張っている。? 情熱の韋駄天たちが繰り広げる感動とドラマが今から楽しみである。


Copyright (C) 2004 Saga-Shimbun Co.,LTD. All Rights Reserved.